.日本看護研究学会雑誌発行50周年和文誌・英文誌編集委員長 2.和文誌編集:編集委員会の変革私が担当した和文誌編集の時期について、前述の記念誌の中で、私自身が「さまざまな変革の始まった時期」「変わらざるを得なかった3年間」と記しています5倍にが、この3年間の本誌への投稿数は前期から約2増加し、当然ながら編集委員会の組織や編集作業の過程もその対応のために大きく変更された時期でもありました。投稿数の急激な増加については、平成以降、看護系大学が急増したこととも大きく関連していると思われますが、本誌への掲載が、大学教員としての研究力を証明する業績としての社会的認知が大きかったものと、手前味噌ではありますが勝手に推測しています。1 教育的査読からの巣立ち1年に1回の学術集会の開催に続き、1978年から学会誌が発行されるようになりました。当初の手作りの雑誌から、徐々に学会誌の投稿規程や編集の体制なども整備され、査読も本格的に行われるようになっていきました。査読は「論文掲載に値するか評価すること。ピアレビュー」とされていますが、この学会の設立趣旨の一部に「若手研究者の育成」があったことから、特に当初は、査読のコメントには、評価というよりも教育的な助言の意味合いが多く含まれていたように思います。編集委員長の立場で、投稿者と査読者の間に入って意見調整を繰り返す中、難航する例では、その査読のやり取りが5回、6回、と続いたこともありました。なんとか掲載までこぎつけたいと助言する査読者の思いと、その思いに必死に応えようとする投稿者のやり取りは、語弊があるかもしれませんが、あたかも指導者と学生のような様相を呈し、長い期間を要した記憶があります。お忙しい査読者への回答の督促も委員長の仕事でしたが、これにもまた苦慮したものです。この過程のほとんどが文書の郵送で行われ、両者と編集委員長や委員のやり取りはほとんど電話で行われていましたので、本務の職業と同時進行の編集の作業は、多くの時間と電話代を費やしましたがそのほとんどが“持ち出し”でした。投稿数の増加に伴い、会員・非会員の中から選出される査読委員の数も増え、本来の査読である“評価”へと進めていく中では、投稿者からは、査読への“脅威的なイメージ”や“敷居の高さ”も感じられるようになっていったのではないかと思います。教育的な査読から本来の形への移行は必要な過程ではありましたが、適切な理解を得るための何らかの対応が必要でもありました。2 査読に対する共通認識への取り組みこの時期の編集委員会にとっては、掲載論文の質を保つための査読に関して、投稿者と査読者、編集委員会との共通認識を得ることが大きな課題だったと思います。(この学会に限らず、看護界全体の課題でもあったように思われますが。)現在では、学術論文の投稿に際して“査読”はつきものであり、査読者からの客観的な評価や指摘によって、さらにブラッシュアップされた論文になっていくことが常識になっているかと思いますが、当時、自分の論文が1〜2回の査読で評価を受けて採否が決定され、予想外の指摘や結果が示されるときには、投稿者自身の自尊感情を揺さぶることにもなるため、委員会としては、投稿された会員の方々がその後も研究を続けていけるような気遣いが必要と考えました。その共通認識を得るための足掛かりとして、第25回学術集会中に、会員からの学会誌や査読に関しての意見を聞く機会を設け、また、第26回学術集会中には「拡大編集委員会」と称して査読委員と編集委員会の意見交換会を開催しました。その結果として、査読基準の公表や結果の伝え方についての倫理的な視点からの見直しなど、さまざまな試みにつなげられたと思います。このような歩みによって、投稿者や査読者に対して、本学会誌が目指す論文のあるべき姿を明確にすることに努めた時期でしたが、現在の学会誌の礎を気づくことに寄与できていれば幸いと思う次第です。(詳細は上記の記念誌をご覧ください。)56
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